Friday, December 19, 2008

4歳児のスポーツ教室

ミクシイにも書いたのですが、我が娘オリーブがこの秋からアイススケートを始めました。ウチは自分も妻もスポーツは好きなので、日頃からオリーブにとってもスポーツは割と身近だったと思いますが、まさか自分の娘がアイススケートを始めるなんて思ってもみませんでした。親にとっても手探りで始まったアイススケート教室でしたが、彼女を通じてこの短期間にいろんな体験が出来て、親としてもスポーツ心理学の学生としても、とても有意義な時間を過ごせています。

さて、オリーブはスポーツと身近だったと書きましたが、なんと言っても彼女はまだ4歳なので、親としても、ゆくゆくは何かスポーツを楽しんでくれたらいいな、そろそろ何かスポーツを習わせたいな、くらいに思ってました。そんな中、アイススケートに触れる機会があり、本人も随分と興味を示したので、親も気軽な気持ちでアイススケート教室に申し込んでみました。

いざ、スケート教室に行ってみると、同じ年くらいの小さい子供向けの初心者用の、週1回30分のレッスンが始まりました。レッスンと言っても、まだ半分くらいの子供たちが補助器具からスタートするくらいのレベルでした。さらに、このスケートリンクには、クラスの受講者は週1回入場料タダで滑れるという特典がついてたので、レッスンとは別にもう1日来ることになりました。そのうち、そんなに来るならレンタルシューズの方が高くつくなあ、なんてことになって、本人念願の白いスケートシューズを買うことになりました。さらにモチベーションアップです。さて、そこで、さらに追い風が吹きます。このスケートリンクは5歳以下は入場料がタダなんです。つまり、レンタルシューズにお金を払う必要もなく、入場料もタダとくれば、彼女は、いつでも好きなときにお金を払わずにスケートが出来る、ということになりました。

オリーブのプレスクールが終わるのが、毎日2時半。ちょうど、その時間にスケートリンクが開いてる水曜日から金曜日までは、そのまままっすぐスケートに通うことになりました。木曜日は30分レッスンがあるんですが、終わった後も30分くらい滑って帰ります。土曜日と日曜日も、たいていどっちかは滑ります。ということで、すっかりスケート三昧の生活になり、しかも、それだけリンクに通えば、だんだんスタッフの方や他の先生方にも顔や名前を覚えられて、声をかけてもらえるようになりました。レッスンでは一緒のプレスクールに通ってる友達もいて、その他にもだんだん友達が増えてきて、周りのお兄さんお姉さんにも声をかけられるようになって、本人もだんだん居心地がよくなってきました。さらに、4歳児がこれだけスケートに通えば、自ずと上手になるので、それが何よりのモチベーションです。番外編としては、ちょうど秋口にディズニー主催の「Disney on Ice」というアイススケートのショーが、わざわざ、ここテネシーまで公演をしにきてたので、見に行く機会がありました。

こうして、アイススケートとオリーブ自身のつながりが、いろんなところから深まっていきました。
  • 週1回のレッスン
  • 日々の練習
  • スケート教室の先生やスタッフの方々
  • 友達
  • テレビやディズニーのショーを鑑賞
そして、いろんな要素がモチベーションの向上につながっています。
  • 練習による技術向上
  • 先生やスタッフの方たちとの触れあい
  • 友達との関わり
  • 親からのサポート(たぶん。。。)
  • 新しい道具(スケートシューズ)やウェア
  • 練習後のアメやココア(笑)
4歳とはいえ、レッスンや練習を通じて、うまくなることや技術を身につけることというのは、本人も既に自覚していて、大きな関心ごとになっています。つまり、この年齢の時期なら「楽しい」という要素が欠かせないということは、想像に難くないと思いますが、一方で、練習して○○が出来るようになったという「出来た体験」は、モチベーションにつながるとても大きな要素になると言えます。

今回のオリーブの体験の中で、この年齢層とスポーツとの関わり合いについて考えてみると、大きな柱は以下の3つかと思います。

  • そのスポーツへの興味
  • 出来た!体験
  • 居心地の良さ

ひとつは、当然ですが、そのスポーツに対して興味があるというのが理想です。でも、小さい子供にとっては、本人にしてみても本当に自分がそのスポーツが好きかどうかわからないなんてこともあるでしょう。親に勧められるがままに、とか友達がやってるからということもあるでしょう。そういう場合には、技術であれ何であれ、本人が向上したことを自覚出来るようなアプローチが必要だと言えるでしょう。つまり、どんなに小さな簡単なことでも、本人が「出来た!」と思えることは、そのスポーツへの興味にもつながりますし、本人にも自信になります。

さらに、練習をする環境が本人にとってどれだけ居心地がいいか、ということも非常に大切な要素と言えるでしょう。特に、インストラクター、コーチの存在は大きくて、「コーチが好きだから練習に行きたい」っていうのは、子供にとって自然なことと言えると思います。現に、ここのスケート教室のインストラクターの方々は、経験も豊富で、どの年齢層にもレベルにも対応してくれます。練習をのぞいてみても、人形や、いろんな小道具を使って4歳児には楽しいひとときだろうなぁって思えるようなアプローチで、かつ、技術もしっかり教えてくれています。さらに、子供たちへの接し方も、さすがアメリカ人と言わんばかりのオーバーリアクションで、どんなに小さなことでも出来れば褒められ、教える方も教えられる方も笑顔の絶えない時間です。で、練習が終わればハグして、また来週。とまあ、子供にとっては最高に過保護な(笑)環境です。

こうして、日々おだてられて、木に登り始めたのがオリーブです 笑。この年齢層の子供とスポーツの関わりを考えたときには、スポーツの体験を通じて子供たちが、物事への意欲や自分に対する自信を得られたり、友達が出来たり、人との接し方を学んだり、と言った社会性を身につけることが出来たとしたら、スポーツが子供にとって大きな役割を遂げたと言えるでしょう。もちろん、その後もスポーツを続け、選手として成果を挙げれば、なおよしですが、それは、今の段階においては、大きなボーナスみたいなもんでしょう。ちなみに親としては、我が子がどんどん滑れるようになっていくのを見届けられたり、スケートを通じて他の家族やコーチと接する時間というのが、楽しみの一つになっています。

Sunday, October 05, 2008

誠意を伝えるには

今回のテーマは以前書いた、時間の使い方ということにも少し関わるのですが、今日はちょっと違う視点も織り込んで「誠意」ということについて書こうと思います。世の中では「いい人」であるというのは、人を評価する上で、重要視する人は多いと思います。でも、ざっくり言って「いい人」と言われている人はちらほら周りにいるのではないかと思います。「根はいい人なんだけどね(←いまだに、これどういう意味だかよくわからないときがある)」とか「いい人なんだけど。。。」という人も含めると、結構いるでしょ。ところが、「誠意のある人」というのは、どうでしょうか?

普段接している人を見ていて、「こうありたい」という行動の一つに、「アクションが早い」というのがあります。それは、仕事が出来るということの条件でもあるように思えるし、さらに接している人への誠意でもあるような気がします。自分の指導教授は、スポーツ心理学会でも会長を務めたほどの有名人ですが、いつもは淡々とした人です。大学での仕事のほかに、教科書を執筆したり、アスリートにメンタルトレーニングをしたり、と忙しいはずなんだけど、彼の口から「最近忙しくて。。。」などというセリフは、一緒に過ごしてきた、この2年間聞いたことがありません。メールを送っても、すぐ返信が来るし、レポートや、学会発表の下地などを送って感想を求めても、あっという間に返事がきます。とにかく仕事が速い。先日もビザ更新のための大使館での面接の際に添付する、担当教授からのレターを依頼しにオフィスに行きました。仕事の速い彼でも2ー3日はかかると思ってたら、「じゃ、今書くよ」とその場でパソコンに打ち込んで、さっとプリントアウトしてくれました。彼の対応の早さというのは、とても自分への誠意を感じますし、仕事の速さというのは、大いなる武器だな、と感心させられます。ちなみに、彼がテンパったり、焦ったりという姿も見たことがなく、何か人生を達観している感さえ、見受けられます。彼の周りでは、とにかく時間がゆっくり流れているように感じるのです。まあ、酒を飲むと、すぐに顔が赤くなって、ほろ酔い状態で饒舌になるお茶目なところもあるんだけど。

7月の頭から日本に戻っていました。現在、剣道を題材にリサーチをしているのですが、友達のつてで、全日本剣道連盟の先生を紹介してもらって、去年の冬からいろいろお世話になっています。この先生は全日本剣道連盟、国際剣道連盟でも理事をされている方で、日本での出張のみならず、しばしば海外にも出掛けられたりする、とても多忙な方です。今回は7月の頭にラスベガスで全米剣道選手権が行われていたのですが、日本からの来賓ということで、この先生もお招きされていました。その後、同じ日程で日本に帰ったのですが、数日後、すでに連盟で働いていらっしゃいました。先生は、年齢的にはご高齢と言ってもさしつかえないと思うのですが、外見も若々しくて、お話が好きで、楽しいし、食欲も旺盛で、何ともエネルギッシュな方です。帰国後すぐに連盟にお邪魔した理由は、日本にいる全日本クラスの剣道の選手にインタビューしたいので、その連絡先を教えていただきたいということでした。先生は、二つ返事で、警視庁、関東近辺の県警の道場の先生の連絡先を教えてくださり、中には、その場で電話をかけて、話をまとめてくださいました。お忙しいにもかかわらず、2、3回会っただけの自分のような若僧の依頼に、さっとその場でアクションをとってくださいました。その後は、「昼飯食いにいこう」と中華料理屋でおしゃべりに花が咲いて、最後に「研究頑張れよ!」と励ましてくださり、颯爽と連盟に帰っていかれました。おかげ様で、各道場の先生方のご協力も得られて、9人もの選手にインタビューすることが出来ました。この先生からは、お会いするといつもエネルギー、情熱、そして誠意を感じます。

年齢、肩書き、立場、こういったものが、どう違っても、人のために動ける人間、人に誠意が伝えられる人間でいたいものです。そして、いくつになっても、情熱を持った人間でいたいものです。このお2人はタイプは違いますが、自分の身近に「こういう人になりたいもんだな」と思える人物がいるというのは、とても幸せなことだと思います。自分はまだまだ自分のことで精一杯な人間ですが、こういう方に接することで、自分の行動も変わっていけばいいなと思っています。

Friday, June 27, 2008

文化を考える

アメリカ生活をしていると、cultureという単語をよく耳にする。遠い島国日本からやって来た自分たちは、ここでは少数派のマイノリティであり、多くのアメリカ人にとってわからないことだらけの人間なのかもしれない。ただ、自分個人の経験から言わせてもらうと、この5年間のアメリカ生活で、今まで自分が日本で体験したこととあまりにも違うのでびっくりしたという経験より、「何だ、アメリカでも同じじゃん」という経験の方が多かったように思う。 もちろん、生活習慣の違いはあるけど、この「人間、本質的にはたいしてみんな変わらない」ということは、自分の中での1つの発見である。

ということで、文化について少し思うがままに。

多くの人にとって文化と聞いて、真っ先に思い浮かべるのは人種や国籍だと思う。確かに、わかりやすい。見た目から、書類上から、一目瞭然。ところが、それらは文化を構成する一部に過ぎない。例えば、自分の場合、少なくとも自覚しているアイデンティティを挙げてみると、日本人、スポーツ心理学の大学院生、父親、夫、元大学野球選手、剣道初心者、などなど。アイデンティティを構成するそれぞれのカテゴリーにはそれぞれの世界や習慣があるわけで、それは一種の文化を築いていると言える。例えば、日本人コミュニティには、日本人コミュニティの文化があり、野球に携わっていた人間には、それ独特の文化がある。こうして、一人の人間が、自分が持つ複数のアイデンティティに基づく、いくつかの文化から影響を受けて、1人の人間として考え方や行動に影響を受けているといえる。

さて、アメリカに来て以来、たくさんの人間と接して来たけれど、国籍や人種という文化的カテゴリーは違うけれども、先ほど自分のアイデンティティとして挙げたカテゴリーを共にする人との時間が多かった。大学院では、同じ専攻の学生に会う機会がたくさんあり、娘の幼稚園に行けば、子ども達の親がたくさんいる。その中で、大学の教授などいようものなら、その人と自分の間には、「親」と「大学関係者」という最低2つの文化を共有することになる。そこで、お互いの共通する話題がちらほら出てくるわけである。例えば、「親」としての話題は、たわいもない子供の話であるし、「大学関係者」としては、授業の話やら、学会の話やら。そうなると、お互い、同じような体験やら、ストレスを抱え込んでいることがわかり、そこで、国籍や人種で分け隔てられている2人の距離が何となく縮まるような感覚になる。特に、お互い同じような苦労に直面しながら頑張っていることや、同じような達成感を味わったことが分かり合えた場合、距離は格段に縮まるように思える。つまり、人間は誰かと何かを共有したり、つながっていたり、共感したりすることを求めているんだと思う。

思うに、異文化コミュニケーションという言葉を耳にすることはあるが、この場合の文化って何を指しているんだろう?単に国籍や人種が違う人間同士ってことなのか、何一つ共通点のない、共感するものがない人間同士のコミュニケーションってことだろうか?もし前者だとしたら、人間は見た目や住んでいる地域が違う人間の中から、共通点や共感し得るものを見つけることを期待しているのではないかと思う。それは、何もおおげさなことではなくて、例えば「お寿司っておいしいよね」とかそういう類いのものでも食文化という意味で文化的な共通点。これは、大いに楽しめると思う。一方で、後者というのは、実際体験してみたらかなりしんどいのではないかと、個人的には思う。

異文化間の交流ってのは、相互理解が不可欠になるわけで、お互いの文化を知ることというのは、とても大切である。人種や国籍を超えて相手を理解するというのは、時として簡単ではないけれど、その人個人が持つ「文化」というものに目を向けてみれば、もう少しとっつきやすいように思える。以前にも書いたことがあるかもしれないけど、日本で野球をやっていた体験というのは、アメリカでの人間関係において、どれだけ役に立ったかわからない。幼稚園に通っている子供の親を通じて出来た人間関係も多々ある。そうした、日常のちょっとしたところから、相互理解って始まるもんだし、人種や国籍、生活習慣の違いにばかり目を向けてばかりいるよりも(それを尊重することは当然大切なこととして)、人間、つながっていたい生き物なんだと考えてみたらどうだろうと思う。


自分がスポーツ心理学で、今、興味があることは剣道をはじめとした武道の世界のメンタルアプローチを調べることである。言うまでもなく、武道の歴史はスポーツ心理学のそれよりはるかに長いわけで、しかも先人たちが長年かけて、心技体のつながりというものを追求してきた分野である。その武道の世界におけるメンタルのアプローチを調べる目的は、単に日本文化と西洋文化の違いに注目して、それを発表することではない。自分の技を磨くことや、それを試合で発揮する上でのメンタルの課題、それを克服するためのアプローチというのは、根幹的に目指している部分では、西洋と東洋、古代と現代、共通点は多いと思う。つまり、その先に目指すものは同じだけど、ちょっとしたアプローチや考え方の違いというのが見られるかもしれない。その中で、将来的には、競技に携わる人間が「これは東洋」「これは西洋」などというカテゴリーに縛られることなく、自分のパフォーマンスを向上させる手段として、武道で行なわれてきたアプローチが、選択肢の一つになればいいな、と思う。実際、もし日本以外の国のアスリートたちが、武道で行なわれているメンタルアプローチを取り入れたりしていたら、それは面白いことだと思う。

異なる文化の間における違いを調べること、つながりを見つけること。そして、それを個々の人間にどう応用できるかを考えてみること。それがスポーツ心理学における文化的研究の面白さだと思う。

Sunday, June 22, 2008

24

説明するまでもなく、1日24時間。世界中、どんな人間にも、これだけは平等に与えられてるもの、それがこの数字。人間の寿命なんてまちまちだけど、まさか今日明日自分の人生が終わると思って生活している人は、稀だと思います。明日も生きているなんて保証は何もないのに、たとえ今日1日を無駄に使っても、ホントに後悔する人なんてわずかでしょう。

この24時間をどう有効に使うかというのは、物事を成し遂げる上で、とてもとても大切なことだと思います。いわゆるタイムマネジメント能力。10分あれば、実は教科書を1ページ読めるかもしれない。10分あれば、バットを30回振れるかもしれない。それこそ授業の課題をやっていた時なんて、何月何日の何時という提出期限ぎりぎりにメールでレポートを送ったりしたこともあったので「10分」がいかに大切かってことは身にしみているはず。でも、喉もと過ぎれば、あの時の冷や汗もまた忘れてしまう。

人間、年を重ねていけば、1つのことだけをやっていればいい、という人はとても稀でしょう。仕事、家庭、趣味などなど。仕事1つとっても、会議、資料作り、メール、電話応対などなどやることは多岐に渡っていることでしょう。アスリートもしかりです。プロにもなれば、それこそトレーニングや試合だけやっていればいいってことにはなりません。メディアへの対応から、ファンサービス、チャリティーに参加したり、家族との時間も必要でしょう。有名になれば人が集まってくるので、つきあいも増えるでしょう。その中で、トレーニングに時間を割き、コンディショニングを調え、万全の状態で試合に臨まなければいけません。試合で結果が出せなくて「あ、先週忙しかったので」なんて口が裂けても言えません。

忙しい。。。確かにそうかも。でも、いつ忙しくなくなるの?忙しくさえなければ出来たの?本当に1分1秒、無駄なく使った挙げ句に時間がなかったの?忙しいって言うのは簡単だけど、ほんの少しの心掛けを考えてみたらどうだろう。「10分あれば何が出来るか?」って考えてみたらいいと思う。朝起きて、今日すべきことをリストアップしてみて、夜寝る前にそれをどれだけやれたか、確認してみる。自分の場合は、たいてい何かやり残してる。自分のことは分かってるから、なるべく壮大な計画は練らないようにしてるのに、やっぱり何かをやり残してる。1日でどれだけベストを尽くせたかって振り返ってみたら、恥ずかしながらベストを尽くせた日なんてなかなかない。

今、自分は博士論文に向けての、レポートに取り組んでます。期限もなければ、量も決まってないレポートで、4人の担当の教授とそれぞれトピックを決めて、こちらがレポートを提出。教授がOKを出してくれたら、そこで終了。決まっているのは、来年の5月までに博士論文本体を終わらせて、無事卒業するということだけ。それすら、遅れたって教授は誰1人困るわけではなくて、全て自分に降り掛かるだけ。「来年の5月までに」というところに、いかに自分でリアリティを持てて、日々の仕事の分量を割りあてて、1日1日を過ごしていくか、という戦いは、日々授業があって、いついつまでにレポートを提出して、いついつにテストがあってという学期中との戦いとはまた別のところで、壁がたちはだかっています。まさに自分との戦い。大学院生活の最後にさしかかって来たところで、自分にとっては、これからプロフェッショナルとして、持っておかねばならない資質を試されているような気がする今日このごろ。人間、一生懸命生きてれば、適切なタイミングで適切な試練が訪れるもんだと思う。いや、その時は適切なタイミングとも試練とも気がつかないことが多いけど、今回は、すでにひしひしと感じてる。


自分の才能や、周りの環境にケチをつける前に、自分自身に聞いてみるべき。

「今日、24時間、ベストを尽くせたか?」

誰にでも平等に与えられているこの24時間を目一杯活用してみること。
それが成功への第一歩。

さて、頑張るとするか。

Wednesday, June 18, 2008

あなたは誰ですか?

突然ですが、今すぐここで自己紹介を出来ますか?
あなたのことを何も知らない人を前に、自分のことを、簡潔に、それでいて、その人が後になってあなたのことを思い出せるような、そんな自己紹介を出来ますか?

アメリカに来て以来、自己紹介をする機会が結構ありました。当然ですが、自分のことを何も知らない人を前に、自己紹介をすると、相手からも「今、アメリカで何をやってるのか?」「何でアメリカに来たのか?」「将来何をしたいのか?」などと聞かれます。冒頭でエラそうに、みなさんに問いかけてみましたが、自分自身、これまで抜群の自己紹介が出来たのかと聞かれたら、自信はありません。でも、日本でいう一期一会ではありませんが、もう今後二度と会わないかも知れない、目の前の人に、自分はどんな印象を与えられただろうか、などと考えてみたりします。少々、大げさかもしれませんが、目の前にいる人にとって、自分はその人の人生で最初の日本人かも知れない。だとしたら、日本人として少しでもいい印象を与えたいな、などと考えたりもします。

元々、なぜそんなことを考えはじめたのか、というと、自己紹介がてら「自分はスポーツ心理学を勉強しています」というと、スポーツ好きが多いお国柄からか「へー、それって面白そうね。どんな分野なの?」と聞かれることが多々ありました。ホントに何回も。返答として、話そうと思えば、あーだこーだいろいろ話せますが、当然ながら、目の前にいる人は、ちょっと興味本位で聞いてみただけで、何もここで10分も20分も話してほしいわけではないでしょう。そうなると、ほんの二言三言で、『スポーツ心理学」を説明する必要があるわけです。さらに、目の前の人に理解してもらわなければいけないわけなので、聞き手に合わせてどんな言葉を織り込むかということを考える必要があります。

これまで、数々の失敗を繰り返してきました。失敗と言っても、相手から「何言ってるかわかんねーよ」って言われたわけではありませんが、会話の後に自己嫌悪に陥ったわけです。フロリダにメジャーリーグのキャンプに行ったときは、会話をしていた隣の親子連れの小学生の子供に「スポーツ心理学って何?」って聞かれました。もう、何て答えたかも覚えていませんが、自己嫌悪に陥りました。。。たぶん、あの子供はいまだにスポーツ心理学が何だかよくわかっていないでしょう。今年の春先には、マイナーリーガーに「メンタルで必要なことって何?」って唐突に聞かれて、答えに詰まってしまいました。プロアスリートを前に、しかも自分の好きな野球をやっている人間を前にして、うまく答えられなかったこのときは、相当凹みました。しかし、その道のプロを目指す人間として、特に万人が一目で分かるような職業(歌手とか)に就くわけではない自分にとって、自分の職業や研究内容について、いついかなるときでも、どんな相手にでも、わかりやすく印象に残るような回答を出来るように、日頃から準備をしておきたいものです。こんなことを、友達の研究者ともよく話をしています。彼とも、どんな相手にも自分の研究内容を聞き手の目線で簡潔に話せるようになろう、と。それがプロだと。

人との出会いは、常に突然やってきます。上の例とはちょっと違いますが、以前にこんなことがありました。カフェで家族で昼ご飯を食べていたところ、突然初老の夫婦に話しかけられました。例によって、自己紹介をしたところ、男性の方がスポーツ心理学に食いついてきて、何やら話をしてくれました。ところが、こちらの英語力不足もあって、彼が言っていることがよくわからなかったのです。しばらくして、ご婦人のほうが会話に入って来て、どうやら、このご夫婦の義理の息子(娘さんの夫)がある大学でスポーツ心理学の教授をしているとのことでした。ようやく、話が分かった自分は、やっとその教授の名前を聞き出し、こちらも自分の名刺を渡して、何とか話がつながりましたが、自分としては、最初の男性の話で、食いつけなかったことにとても悔いが残りました。後日、この教授に、挨拶がてらこの日の出来事をメールしましたが、自分がしっかりリアクションをしていれば、あのご夫婦ともっと会話が盛り上がっただろうに、と思うと残念です。

かと思えば、こんなこともありました。去年、家族でシアトルに行ったときのことです。マリナーズのグッズショップをぶらついていたところ、店員と話す機会がありました。いろいろ話していくうちに、彼も大学野球の経験者だということがわかり、さらに何人か共通に知り合いもいたことから、話がはずみ、連絡先も交換するまでに盛り上がりました。数ヶ月後、今度は自分の大学野球部の後輩が、偶然にも彼に会う機会があり、自分の話になったそうです。そこで、後輩は、その店員さんから自分のメールアドレスをもらって、自分にメールをくれたわけです。おかげで、この後輩ははるばるテネシーまで来てくれて、何年振りかの再会を果たすことが出来ました。

以前勤めていた会社の先輩が「居酒屋で隣に座っているヤツはチャンスだと思え」と言ってました。ただの赤の他人かも知れないけど、どこでどうチャンスが巡ってくるかわからない、ということです。まあ、そんな肩肘張った状況じゃないにしても、自分のことを相手に話す、というこのシンプルな行動から、会話が盛り上がったり、人間関係の輪が広がったりする可能性があるかと思うと、初対面の人との会話をぜひとも上手にこなしたいものです。

Saturday, June 14, 2008

伝統を守るべきか、変化を受け入れるべきか?

引き続いて剣道について。

現在、剣道界が抱えている問題の1つに「剣道のスポーツ化」というのがあります。意外に思われる人もいるかもしれませんが、剣道をやっている方は「剣道は武道であってスポーツではない」という強い思いを持っています。去年の冬、日本で全日本剣道連盟に足を運ぶ機会があったのですが、そこでお会いした先生も、「剣道は心です。剣道は武道であって、勝ち負けだけを競うスポーツではない」ということを強調されていました。ウチの道場の先生方も、そこは常に強調しています。「ストリートファイトのように打ち合うだけのものは剣道ではない」と。一方で、剣道を世界に広めたいという思いからか、オリンピック競技などに普及させたいと思っている方々もいるようです。

「剣道のスポーツ化」を恐れている人の多くは、柔道が直面している事態に陥ることを危惧しています。ご存知の通り、柔道は今や世界に広まっていて、オリンピックでも人気の競技です。ところが、反面、日本古来の柔道の姿というのは影を潜めて来ています。例えば、スポーツの流れで避けられないのは、「試合における勝負の明確化」です。現に柔道は、勝ち負けの判断を簡素化するためにポイント制が導入されています。技が完全に決まらなくても、ある程度決まれば技ありなり、有効なり、効果なりというポイントになり、試合が終わった時点でポイントが多い方が勝てることになります。そうすると、どういうことが起きるかというと、本来の技の形が、ポイントを取るために崩れて来たり、先にポイントを取った方が、防御一辺倒になったり、と柔道本来の、堂々と組み合って技をかける、という理念が崩れてくることになります。また、「魅せる」というのもスポーツの特徴のひとつでしょう。柔道のカラー道着の導入なども、見ている側を考えての変化かもしれません。

柔道は、いまや日本のものだけではなくなっています。もちろん、それは喜ぶべきことです。しかし、競技としての柔道の存在が大きくなればなるほど、日本人が柔道と向き合って来た心の部分、柔道の理念というのは、世界で柔道に取り組んでいる人の間で、完全には忘れ去られないかもしれませんが、徐々に薄まってしまう可能性はあるのかもしれません。日本の柔道関係者の「勝ちたい」でも「柔道誕生の国として、本来の柔道を貫きたい」という葛藤は、想像を絶するところだと思います。

そういえば、日本に帰国している時に、興味深い新聞記事を目にしました。世界で大活躍しているご存知、谷亮子選手についての記事でした。記事の中で、世界で勝ち続けるための秘訣について、彼女自身、「世界で勝つための柔道をすること。日本の選手の中には、『本来』の柔道に固執するあまり、世界で苦戦している選手がいる」とのことでした。これには「なるほど!」と思ったのと同時に、葛藤はなかったのだろうか?とも思いました。しかし、彼女が「世界で勝つ」ことを目標として、全てをその目標達成のために決断し、対応させたことに彼女の強さがあるのかもしれません。

伝統を守るために本来の理念を追求するのも1つの道であり、世界の流れに乗って勝負に徹するというのも1つの決断です。伝統を守りたい全日本剣道連盟の方々が、剣道本来の理念を守るべく行っていることの1つは、審判の育成だそうです。つまり、理想の一本というものを、まず審判が理解していて、その基準に満たない技を審判が取らなければ、選手は自ずと理想の一本に向けて技を磨かざるをえないということです。この教育的アプローチというのは、地道で時間を要することですが、とても大切なことだと思います。つまり、「伝統を守る」、「スポーツ化を防ぐ」といったスローガンを声高に叫ぶだけではなく、具体的にアクションを起こす。まずは、本物の理想的な技を見抜く目を審判に養わせる。そして、各選手が理想の技を身につけるべく、日々の稽古に励む。窮屈に聞こえるかもしれませんが、スポーツであれば、プロフェッショナルから、レクレーションまで、様々なスタンスがあっていいと思いますが、全日本剣道連盟は「剣道はスポーツではない」というスタンスを取っているのですから、「伝統」や「理念」を守るというスタンスを最優先させることは筋が通っていると思います。ただ、初心者の自分が言うのもなんですが、日本における剣道ですら、長い時間をかけて、変化を経て、現在の形になったはずです。「伝統」や「理念」を守るという地道な姿勢を保ちつつ、必要であれば変化を厭わないという形が理想ではないかと思います。

最後に、先日お会いしたM先生が、稽古の後に飲んでいる時に、こうおっしゃってました。「私は、何も多くの人に剣道をやってもらわなくてもいいと思ってるんですよ。本当に剣道を理解して、賛同してくれる人だけがやってくれたらいいと思っています。」このセリフに魅力を感じた自分も、よくも悪くも伝統を重んじる保守的な日本人根性の持ち主なのでしょうか?

Thursday, June 12, 2008

教わることのありがたさ

剣道をやってます。
始めたのは2年くらい前なんだけど、授業がある学期中には思ったように稽古に行けなくて、いまだに初心者のレベルなんだけど。。。

メンバーは韓国人の先生、日本人の先生に、米、韓、日と若いの古いの、♂、♀といろいろいます。メンバー達は純粋に剣道がうまくなりたいと情熱を持っている人たちばかりで、この日本の伝統文化を本当によく理解していて、リスペクトしています。例えば、「先生」「はい」「よろしくお願いします」「ありがとうございました」という日本語は常に使われています。言葉だけではなく、先生を敬う姿勢、仲間を思いやる態度という今では古いと言われかねない日本の大切な精神文化も、このメンバーの中では見られます。

以前、スポーツ心理学の授業で、剣道の稽古についてレポートを書いたことがあったんだけど、剣道の稽古での一番の特徴は、先生自ら稽古に参加しているということです。防具を着けて、基本の打ち合いの時から、生徒が2人1組になって打ち合う地稽古という稽古の時でも、先生はちゃんと生徒の1人と打ち合います。これは、いわゆるスポーツにおけるコーチとは少し違う点だと思います。もちろんフットボールやバスケットボールで選手と混じって練習するのは容易ではないので、単純に比較は出来ませんが。

実際、自分のような初心者にでも先生は、文字通り「胸を貸して」くれるがごとく、稽古をつけてくれます。基本打ちの型を見てくれたり、地稽古では、先生自ら容赦なく打ってくれることもあります。そして、あえて「打ち間」といって、「この距離、このタイミング」で打つんだよ、というところで、わざと隙を作ってくれることもあります。こうして、実際向き合って先生が自ら教えてくれるということは、本当にありがたいことですし、重みがあります。

先日、もともとこの道場で長い間教えていただいていたM先生が、現在お住まいのフロリダからわざわざ道場を訪ねて来てくれました。先生は、ちゃんとご自分の防具と竹刀を持って来て、我々生徒に稽古をつけてくれました。こうしてまた一緒に剣を交えるというのが、先生にとっても、生徒にとっても再会の喜びを表す一番の手段なのでしょうし、こうした先生の思いというのが、我々生徒にとっても嬉しいものなのです。去年、ある授業の課題で、道場のアメリカ人の同僚2人にインタビューをしたことがありました。日頃から本当に一生懸命剣道に取り組んでいる2人の発言は、立派な日本人の心を持っているように感じ、逆にこちらが心を洗われるような思いになったものです。インタビューの中で、2人は口を揃えて「M先生に教わった剣道を実践しているだけです」と言っていました。そう言い切る2人の表情には、自信と誇りを感じたものです。

そのうちの1人が、初めて大会に出たときのことを話してくれました。初めての大会で、彼は相手に全く歯が立たずに負けてしまったそうです。 しかし、彼の中では、日頃からM先生や、韓国人のH先生から「試合に勝つためだけの剣道なんてやらなくていい。正しい剣道を追求しなさい」と言われてたので、その試合では勝てなかったけど、教わったことをそのまま実践した、という自負があったそうです。時を経た今、彼は相手にそう簡単に崩されることのない、本物の剣道が身についているという実感があるそうです。

こうして、稽古を通じて、生徒は技を教わり、心を教わり、自分の剣道を築き上げていくわけです。そうして、先生から教わったことを、今度は自分のような初心者に、教えてくれます。時間を掛けて技と心を身につけた彼らの態度からは自信と誇りが伝わってくるし、そういう彼らの視線を見ているとこちらは「これが、剣道で目指すべきところなのか」という気持ちになるものです。こうして、同じ理念や目標を共有しているという思いが、世代や国籍を越えてメンバーの間に敬意や思いやりが芽生えてくるのでしょう。

30歳半ば。人生まだまだわからないことはたくさんあり、学ぶことはいくらでもある年齢だとは思いますが、最近、腰を据えて物事を教わるという機会がどんどん減っているように思います。本を読んで知識を得たり、授業を受けて学ぶことはあっても、面と向かって体をつきあわせて、共に汗を流して「教わる」というこの道場での体験は、人々の思いをひしひしと感じとれる、ありがたいひとときであり、他ではなかなか得られないものです。

まあ、とりあえず自分の当面の課題は、うだうだ言ってないで、きっちり稽古をし続けることですが。。。