Tuesday, July 04, 2006

NAKATA

今回はスポーツ心理学には直接関係ないけど、皆さんご存知の通り、サッカー日本代表の中田英寿選手が引退を表明したということで、そのことについて書いてみたい。

29歳という若さでの引退について、本人はそのことについてHPでは直接触れていないが、周囲から「早すぎる」という声が出ているとともに、「彼らしい引き際」というコメントもちらほら見る。実際自分は早いとも遅いとも思わず、ただ「彼らしいな」思ったが、同じような印象を持った人も多いのではないか。彼の持つ印象と言えば、サッカーでは世界で通用するレベルを持ちながら、それは彼の人生の一部であって、本人は一生何らかの形でサッカーに関わっていくにせよ、サッカーだけで人生を終えるつもりはない。HPをのぞいてみても、そのデザインはオシャレだし、日記からも、彼の興味がファッション、インテリア、音楽など多岐に渡り、サッカー以外の活動を見てみても、ビジネス、語学習得、異文化への関心など様々なことに対して意欲的に自分のアンテナをのばしていることが伝わってくる。

自分は正直に言うと、日常的にサッカーを見ているサッカーファンではなかったんだけど(1998年以来、W杯の後にはいつも、「これからはサッカーを見続けよう」と思うんだけど)、中田選手のことは何となくいつも気になっていた。きっかけは、かれこれ4、5年前だと思うが、「ZONE」という日本のテレビ番組からだったと思う。そこに出てきた高校時代の中田選手は、初々しさこそあったもののテレビの前で堂々と「ヨーロッパでサッカーをやりたい」という自らのビジョンを語っていた(「治安がいいところがいいです」って付け加えていたのが何ともかわいらしかった)。そして、若くして代表に入った彼が、カズを相手にも堂々と自分の意志を見せてた姿がとても印象的だった(確か映像は中田が蹴るはずのFKをカズが蹴ると言い出したことに対して、怒りを表していたシーンだったと思う)。高校時代から自分の理想とするプレーがあって、目先の勝ち負けよりも、チームとして理想の形を求めることを優先させていたというような印象があった。その後、海外でプレーをするという本人のビジョン通り、彼は若くしてイタリアに渡る。海外でプレーする最初の日本人ではなかったけれど、その後多くの選手が、彼に続いて海を渡ることを夢見ることが出来るようになったという点では、野球界で言えば野茂選手の功績に似ているし、2人とも「先駆者」という表現がふさわしいと思う。

そして、これは自分個人の印象だが、野茂選手にしても中田選手にしても、「先駆者」である彼らは、その後に続く選手に比べて、実力うんぬんという以外に、明らかに「何か」が違うような気がする。野球界もサッカー界も、近年では続々と選手が海外に出て行く傾向にある。だけど、選手としての成果、実力以外の部分で、オーラ、誇り、貫禄、意志、プライド、存在そのもの、が他の日本人選手からは見えてこない「何か」を持っている気がする。そして、彼らの共通するところは、自分が日本を離れてからも、自身が巣立ってきた日本への思いを持ち続けていること(自分の経験からいうと、日本を離れたからこそ持っているのかもしれないが)。野茂選手は自身でクラブチームを設立しているし、アメリカの独立リーグのチームに日本との架け橋になるよう投資した。中田選手も自身がいたチームをサポートしている。つまり、彼らはマスコミを前に饒舌に口を開くことはないが、時に孤高などと言われる彼らがグランドの外で、他のアスリートや将来の若者達のために一肌脱いでいる。

スポーツ心理学を勉強して以来、人間的成長がスポーツの成功には不可欠だという思いが強まっている。「スポーツにおける成功」とはこれまた定義が難しいが、自分にとっては少なくとも一時の活躍を指しているものではない。スポーツは、特にプロスポーツの世界は記録やパフォーマンスの結果を通じて勝ち負けを争うもので、我々は、ついついその記録や結果の優劣についてのみ注目してしまいがちだ。しかし、人間が関わっているこのスポーツのパフォーマンスには必ずその人間の持っている性格、意志、信念、価値観が現れてくるのである。「スポーツにおける成功」とはおそらく相手に勝つこと、記録を出すことだけではないんだと思う。自己の信念を全うし、意志を貫き通し、パフォーマンスを通じて自己を、自己の価値観を表現しきれた者が「成功」を実感できるのだと思う。

「意志あるところに道は開ける」

自分が好きな言葉の一つである。彼らは自分自身の道を切り開いていくことによって、多くの、後に続くアスリート達に道を残してくれた。彼らが常に自分の意志を持っている限り、今後も自分自身の道を切り開いていけることだろう。たとえ、競技の一線から退いたとしても。自分はそういうチャレンジ精神、勇気、意志、プライド、誇りを得ることが、また「スポーツにおける成功」だと思っている。

自分は今でも野茂選手のおかげで自分がアメリカ野球に興味を持てて、そして現在に至っていることに感謝している。中田選手にも、野球ほどではなかったが、サッカー、そしてHPなどを通じて彼の価値観に触れることが出来たことに感謝している。そして、もちろん彼らとは全く異なるものだが、自分で自分の道を切り開くという意志を持つことが出来たことも、少なからず彼らからの影響もあったのではないかとさえ思っている。

「スポーツにおける成功」とはアスリートそれぞれの主観によるところであり、周りにいる我々もまた、自分たちの主観によって、アスリートの成功うんぬんを好き勝手に議論するものである。だけど、彼らはプロのサッカー、野球の世界において記録、実績においては文句なく成功を収めたアスリートであり、それは彼らの持つ才能や肉体的なもののみならず、人間的な部分が大きく関わっているように思えてならない。そして彼ら自身が、彼らのプロスポーツ人生を「成功」と思えるよう心から願っている。

中田選手の引退を惜しむ気持ちと同時に、次はどんなことをしてくれるんだろうか、という期待がすぐに自分の中から出てくることもまた事実である。プレーのみならず、引き際でも、また我々に考えさせてくれるきっかけを与えてくれた彼の存在の大きさを改めて認識した。そして、セカンドライフでもまた我々に。。。と期待してしまう。

12 comments:

Anonymous said...

「スポーツにおける成功」かあ。いいテーマだね。

30歳も半ばに近づくとさあ、「生きる目的は何?」とか、「人生における真の成功とは?」とか、学生時代にはこれっぽっちも考えなかったことをいっちょ前に考えてたりするんだけど、俺が思うには、大きな夢を持って、そいつに向かって挑戦し続けることだったり、どんな小さな事でもいいから自分の信念に従ってど真剣に生きることだったり、そんな事なんだろうなって思うのよね。スポーツっていう切り口で考えても同じ事が言えるわけで、中田や野茂みたいなスーパースターだけが成功者じゃなくって(彼らはその中でも真の成功者だけどね)、県立高校の補欠はってるへたっぴな球児だって、40歳過ぎても自分に挑戦し続ける名もなきクラブチームのプレーヤーだって、夢を持って熱く生きてる奴ってのはみんな成功者だと思うよ。ちょっと臭いかな?

先日友人から稲盛和夫さんの本を借りて読んだ。稲盛さんて京セラの創業者、かつauの前進であるKDDIの創始者ね。この人は、生きる目的、人生の意義ってのは、自分の心を磨き高めること、もっというと魂を高めることだって言ってた。そのためにはあふれるほどの夢を描き、決してそれを諦めず、全身全霊を込めて突き進め、みたいなことを説いている。さらに心が洗われるなあと思ったのは、感謝の気持ちとか、利他の心とか、人としての道徳みたいな一番俺に欠けてる部分?の大切さを実に分かりやすく、説得力を持って教えてくれた。ちょっとスポーツの話とは逸れてしまったけど、でも本質的にはつながっているよね。そして神様ってのはよく見てるから、そうやって誠実に真剣に生きてる人のところに、必ずご褒美を用意してくれる。すぐに手に入らないから人は気づかないし、途中で諦めちゃうんだけど、成功の法則ってそういうもんなんだなって最近思うようになってきたよ。

俺もそんな人に少しでも近づけるように頑張れねば。ウンチクばかりで中々実行力が伴わねえんだ、これが。ま、とりあえずホームグランドの野球の世界においてくらいは、こだわり持って「成功」出来るように頑張っていきたいもんだね。

said...

>matsu
「スポーツにおける成功」ってさ、学生時代に野球をやってたときにも、考えてたんだと思う。それなりに。でも行動が伴っていなかった。たぶん。稲盛さんの言ってる事も、おそらく学生時代にどこかで1回は耳にしてるような話だよな。だけどそれを消化出来るだけの器がなかった。時々思うことがあるんだけど、中学高校でmatsuほどではなかったにせよ、自分なりに野球に没頭してた時間について、あれがあったから大学やクラブ、現在の野球人生があるのか、いや、あの頃に野球への時間をもう少し削っててもいいから、もっと他のことに触れて自分の人生に、人間的成長という意味で(野球オンリーの生活より)もっと刺激を与えていれば、自分のその後の野球人生にもっとプラスの効果があったのか、どうなんだろうって思うんだよね。saipanさんなんて、現役で大学に来たくらいだから勉強もしっかりしたり、割といろいろな経験をしながら野球をしてたんじゃないかって思うんだけど、そのへんどう思う?matsuにしても、今現在、いろいろな経験、本を読んだり、会社で経験したような事で、多くの事を野球に活かしてるよね?そういうのって、今の年になったから出来るようになったってこともあるんだろうけど、もし若い頃に、たとえ野球に割く時間が少なくとも、そういうアプローチをする指導者のもとでやっていたら、どうなったんだろう?オレは案外プラスになったんじゃないかって思ってるんだけど。それほどにまで、最近、人間的成長がスポーツの成長には不可欠だと思っている。若いうちは特に、matsuやオレが言っているようなことが「スポーツにおける成功」なんだ、って指導者から繰り返しすり込むようなアプローチが必要なんじゃないかって思う。

>saipanさん
時間が流れてるね〜。甲子園目指してたのなんて15年前だからね。野球をやってた頃と、今のような生活においての決定的な差は、野球と違って結果がすぐにでない事と、成功、失敗の定義が不明確であること、いや正確に言うと成功の定義の大部分は個人の主観、人生観が占めるということ、だと思う。つまり、今日打った→達成感、3割打った→成功、というような単純な図式がなかなか日々の生活には出てこないよね。ビジネスマンも会社によってはそういうシンプルな図式が出てくるんだろうけど、それでも例えば、給料をたくさんもらってても、それが多大な犠牲が払われた上での結果であれば、それはまた「成功とは何か」を考える機会となってしまうよね。だけどsaipanさんが今、自分の10年を「間違いではなかった」と感じられるという事は、大きな成果ではないだろうか。日々の中で、今やってる事が成功なんだろうか、今後にどうつながるのかって、毎日同じような生活を淡々と続ける社会人生活の中では、はっきりと見えない事があって、それはむしろ後から振り返った時に浮き彫りになるもんなんじゃないだろうか。それに学生時代と違って、時間を区切るのが大変な社会人生活(進級とか、進学とかで)、新たな一歩を踏み出そう、とか原点に戻ろうっていう意識を持つのも、だんだんたやすくなくなるのかもしれない。そういった意味では、自分達の場合、例えば高校野球を見た時に自分の原点を思い出す事が出来たりする。それは原点を持ててる自分がいて、さらに原点に戻れるきっかけを日々の生活の中で何かの拍子で手に入れることが出来る、というのは、saipanさんの言う通り「理屈抜き」のもので、あの頃の時間がかけがえのないものだったって言う事が出来るよね。今回のテーマに強引に結びつけるとしたら「スポーツにおける成功」を発見するのは、何もスポーツに打ち込んでる時にのみ見つかるものではないのかもしれないね。

Tomoya Shimura said...

自らヴィジョンを描いて突き進んでいく姿勢。これが本当の"Going my way"である気がしてなりません。

アメリカに来て、"career"という考え方を日々目の当たりにしているように思います。日本で叫ばれるキャリアとは若干異なるコンセプトです。以前はアメリカ企業も日本と同じく終身雇用で、フリーエージェントという発想はなかったといいます。

中田選手は、日本人、特にアスリートとしてこうしたコンセプトを先がけて実践する第一人者と呼ばれるようになるのではないでしょうか。

Anonymous said...

野球だけやってちゃダメだと思うよ。特に多感な学生時代はいろんな世界にアンテナ張って、自分のキャリアを真剣に考える時期だと思うし、おっしゃる通り他の分野から学ぶことは山ほどあるから。振り返ると自分の高校時代は、山奥の寮に監禁されて、テレビ&雑誌禁止、外出禁止、女禁止、とにかく野球と名のつくもの以外は全て禁止で、野球に集中しろっていうルールでがんじがらめに縛り付けられた。結果として、高3の夏に甲子園の夢が絶たれ、生きる目的を見失った。本気で人生終わりだと思ったし、死んでもいいやくらいに思ったからね。そのときは「野球もや~めた」って思ったし。

学校ってのは、勉強や野球を教えるだけじゃなくて、これから長い人生を生きていく上で、いろんな選択肢があることを教えなくちゃいけないよ。もっといえば、このブログで議論してる「生きる目的」とか「成功とは」とかね。親もそうか。ヒデ、野茂、松井、長谷川、みんな哲学があるもんな~。あいつら、みんな立派だよっていつも敬服。。

一方でお前が言うとおり、あの時代があるから今もこうして野球にのめり込んでる自分がいるのも事実。あの経験がバックボーンになって自信にも繋がっている、理屈抜きでね。車の両輪、バランスが大事ってことなんだろうな。

Anonymous said...

野球だけやってちゃダメだと思うよ。特に多感な学生時代はいろんな世界にアンテナ張って、自分のキャリアを真剣に考える時期だと思うし、おっしゃる通り他の分野から学ぶことは山ほどあるから。振り返ると自分の高校時代は、山奥の寮に監禁されて、テレビ&雑誌禁止、外出禁止、女禁止、とにかく野球と名のつくもの以外は全て禁止で、野球に集中しろっていうルールでがんじがらめに縛り付けられた。結果として、高3の夏に甲子園の夢が絶たれ、生きる目的を見失った。本気で人生終わりだと思ったし、死んでもいいやくらいに思ったからね。そのときは「野球もや~めた」って思ったし。

学校ってのは、勉強や野球を教えるだけじゃなくて、これから長い人生を生きていく上で、いろんな選択肢があることを教えなくちゃいけないよ。もっといえば、このブログで議論してる「生きる目的」とか「成功とは」とかね。親もそうか。ヒデ、野茂、松井、長谷川、みんな哲学があるもんな~。あいつら、みんな立派だよっていつも敬服。。

一方でお前が言うとおり、あの時代があるから今もこうして野球にのめり込んでる自分がいるのも事実。あの経験がバックボーンになって自信にも繋がっている、理屈抜きでね。車の両輪、バランスが大事ってことなんだろうな。

Anonymous said...

ふらっと見知らぬ土地に転勤になって1年たつけど、野球やっててホントよかったと思うよ。会社以外じゃまるで出会いのない環境の中で、仕事以外の人間関係作れたのは野球のおかげだからね。俺にとってはこれで充分成功だよ。後は結果がついてくれば言うことなしだけどね。

「生きる目的は何?」ってのはいまだいろいろ考えさせられるけど、30歳という節目の歳に北海道来ていろいろ価値観変わったよ。カルチャーショック受けたっていうか・・・結構いい転機だったね。まぁハタから見たらのんびりやってるようにしか見えないだろうけど。とりあえずなんの根拠もないけど自分はいろんな経験ができて成功しているとポジティブに生きてます。

said...

>Tom
Tomが考えるキャリアというのはどういうもの?オレも今のタイミングで大学院にいれるのは面白いなって思ってる。真剣に自分のキャリアを考えて、行動に移している人が周りに多いからね。思うに自分のキャリアを考える上で、まず自分自身が自立(自律)することが必要だと思う。当然だけど、成功はもちろん自分自身で享受すればいいんだけど、失敗もまた全て自分が責任を負うという腹づもりが必要になってくるから。そう考えるとアスリートも本来自分の身一つで生き抜いているという意味では自分のキャリアについて自立した姿勢が身についていてもいい気もするけど、みんながみんなそうでもない。むしろ自分の才能を無駄にしている人もたくさんいるのではないかと思う。アメリカも恐らくこういう問題にぶち当たってるよね。アメリカの大学において、学生アスリートへの過保護っぷりなんかは「自立」という意味ではきっと賛否両論だと思う。

>matsu
自分の哲学か。。。これは一流のアスリートのみならず、持っていたいもんだよな。自分がヴィジョンを持って、それに向かって自分の行動を律して、何かを築き上げてきた人、または一旦、何かを失ったとしてもまた這い上がってきた人、ってのは何か哲学めいたものを見つけてるんだろうね。以前、何のスポーツだったか忘れたけど、一線でやってる人で、トレーニングから何まで全部自分で考えてやってるって人がいて、その人はスランプになっても怖くない、なぜなら自分の事は全部わかってるからみたいなことを話してた。マラソンの中山竹通なんかもその部類に入るかも。話がちょっと極端な方向にそれちゃったけど、matsuの言う通りバランスが大切、何事も。でも何を持ってバランスが取れてるのかっていう見極めが難しいし、ある程度結果が欲しい場合、そうそうバランスなんて潔く言えない。例えば、野球以外の生活もエンジョイしてて(遊ぶという意味ではなくて)、甲子園の予選で負けて「もっと練習しとけば良かった」っていかにもありがちなストーリーじゃない?「いや、高校生として今後の人生を考えた場合、バランスよく時間配分をして野球に取り組んだ結果だから仕方ない」っていさぎよく思えればいいけどね。そう導くのは、大半は大人の役目だろうね、高校生といえども。高校スポーツで選手が結果を求めすぎてるのも大人が原因とも言えなくない中で。

Tomoya Shimura said...

僕の考える"career"コンセプトは、目標を設定し、そこにたどりつくのに必要な技術・経験を得るためのステップを自らが考え、実践してゆくプロセスそのものです。そうしたコンセプトの中では、一人一人がフリーエージェントとして、自らの付加価値を高めていく努力を惜しみません。転職が当たり前だったり、大学院に大金をはたくというのも、そこに付加価値があるから。決められたレールというものがないからこそ、貴さんのおっしゃるような自己責任が重要になってくるのだと思います。

日本で使われるキャリアという言葉は、官僚組織において、単に上級職に上り詰めることを意味する場合が多いのではないでしょうか。

アメリカの大学アスリートに対して過保護かどうかは分かりませんが、少なくとも甘やかされているというのは嘘だと思います。彼らは、甘やかされている以上に、制約も多いからです。日本のアスリート以上に、いい生徒としての行動が求められ、学業でも一定以上の成績を収めなければならないととともに、練習への参加義務、NCAAの規定がもたらす自己管理の意識がプレッシャーとしてのしかかります。一般の生徒とは比べものにならないくらい密度の高い日々を送っているように思います。これは選手やコーチにインタビューを行っていても、ひしひしと伝わってきます。

そうした難しい環境の中で、自らのキャリアを決めていかなくてはならないため、Thornton Centerのような組織が特別に用意されているのだと思います。

said...

>ええちゃん
コメントありがとう!全く同じ感想をオレもこの国で実感してるし、matsuも以前、引っ越した先で言葉もよく分からない中で、コミュニケーション出来たのは野球のおかげだったって言ってたよね。自分が教える立場とかになったら、技術指導だけではなくて、こういうスポーツの持つ付加価値みたいな部分も大いに、選手達に話してあげたいなって思う。
地方での生活も、ええちゃんのことだからきっとエンジョイしてると思うけど、オレも人生無駄なことはないと思ってます。特に田舎生活、子供も生まれたし、小さいうちに家族でのんびりとした時間を共有出来るのは財産になるんじゃない?何となく自分の鹿嶋生活やイリノイでの生活と勝手にダブらせてるけど、どんなもんだろ?

said...

>Tom
さっきから自分のコメントをupするたびに、次の書き込みが入ってるという、嬉しい状況が続いてるよ 笑。アメリカの大学アスリートが過保護だって言ったのはオレがあるネガティブな一面だけを思い浮かべたところもあったかもしれない。例えば、フットボールの生徒がちゃんと授業に出ているかどうかを、他のスタッフが教室にまで見回りにきてることととか、大学によってはアスリートが単位を取れるような、フェイクのような授業を持ってるところもあるとか、そんな話を聞いたから。もちろん、Tomが指摘しているような立派なアスリートもたくさんいるし、特に文武両道という意味では、日本では考えられないような話も珍しくないよな。オリンピックレベルのアスリートが医学部に進んだりという例もあるように。この国の特徴の一つに、あらゆる場面でルールが存在しているってことが挙げられるよね。それは度々オレたちの間で議論している通り、統一された価値観を持たない移民国家であるということが大きな原因だと言えるよね。あと、もう一つこの国の大きな特徴は、貧富の差。そのため、たくさんの報酬を得ている人は、それ相応の責任とロールモデルとしての期待がかけられる。それがこの国でのフェア精神のような気がする。確かに大学アスリートは競争も激しく、勉強との両立も大変だけど、一方で彼らはメディアも含めて、それだけ注目を浴びてるし、金もかかってる。例えマイナー競技だとしても、十分な施設が与えられて、一部だとしても奨学金が用意されている。その見返りとして、選手にはそれ相応の責任がついてまわるのは当然だと思う。NCAAにしても大学スポーツが、競技によって差はあるにせよ、これだけ大金が動いて、世間の注目を浴びてる存在であることを認識しているからこそ、勝利至上主義への歯止め役として、学業との両立、練習時間などの制約、日常生活での態度、発言などなど、建前だとしても、きっちり統括しているというところを世間に示さなければいけない。それが大学スポーツをマネジメントしているものの義務だと。だけど、最近自分の中で「建前」を見直しつつあるのは(NCAAが建前だと断定しているわけじゃないよ)建前が人間の行動に影響を及ぼす部分が、多かれ少なかれあると思い始めてるから。プロアスリートのチャリティとかだって、心底本気でやってる人もいれば、半分義務感みたいな人もいるかもしれないけど、それによって、次世代のアスリートの中にも、本気でチャリティに取り組む人ってのが必ず出てくるんだと思う。
話がかなり逸れたけど、言いたい事は人様より報酬を得たり、特権を手に入れた人は、本来それ相応の責任とロールモデルとしての期待が付随するという事。それと、建前だとしてもルールを作る事によって人間の行動に影響を及ぼす事が出来て、いずれは、ルールの存在の有無に関わらず、人々の意識にそのルールの持つコンセプトを浸透させる事が可能であるということ。ちょっと強引かな?

Anonymous said...

>自分のキャリアを考える上で、まず自分自身が自立(自律)することが必要

>人様より報酬を得たり、特権を手に入れた人は、本来それ相応の責任とロールモデルとしての期待が付随する

このコメントに非常に共感しました。 イチローや中田はこのことをわかって行動していたんだと思います。 自分のコメントがマスコミによって歪められることを嫌がって、中田が日本のマスコミにほとんど話をしなくなったことも、そのやり方自体には問題があったかもしれませんが、ある意味自分のコメントには責任があると自覚してのものだったんでしょうね。 今日の日経新聞の中田についての特集記事、非常に興味深かったです。

一方で、昨日の夕刊紙に、柳沢や小野、大黒、小笠原らがW杯前の最後の休日に、ドイツの街をうろついて日本人女性をナンパしようとしたり、夜遅くまで騒いでいたという記事を目にしました。 

この記事の内容が本当だとしたら、怒りを通り越して悲しくさえなります。彼らには自立(自律)もなく、責任や、ロールモデルとしての自覚もなかったんでしょうね...

said...

>てつかずさん
中田は以前、マスコミに対して「言葉の暴力」という表現をしてたと思います。その暴力に対抗するために自分もそれ相応の手段をとるというような事を言ってたと思う。実際、事実をねじ曲げられた報道によって、自分の身を危険に晒されてホテル暮らしを余儀なくされた経験をしたとのことなので、彼が「言葉の暴力」と言った事は心底感じた事なのでしょう(ホテル暮らしの経験と、この発言がどちらが先かは知りませんが)。HPを通じてメッセージを発し続けたのも、マスコミへの不信感とともに、自分のことは自分でやるという、彼なりの自立への表れだったのかもしれませんね。
ナンパの話は、まあ夕刊紙の話なんで何とも言えませんが、ゴシップ記事によるとロナウドも朝帰りとかしてたようですね。それでもゴールを決めてた彼はやはりタダモンじゃなかったと言うべきか?それとも、ゴールを決めたのは格下相手ばかりで、結局ブラジルが準々決勝で負けたのは、朝帰りなんかしてる選手がチームにいたからだって言うべきなのか、どうなんでしょうね。